こんにちは、歴くまです!
最近はラグビーワールドカップが熱いですね!
記事を書いている今はスコットランド戦の全日で、「果たして日本は決勝トーナメントへ行けるのか!?」というところですが、そんな日本よりも早く決勝トーナメント進出を決めた国があります。
それはウェールズ、ラグビー世界ランキング2位(2019年10月)の強豪です。
以前、イギリス国旗にイギリス構成国の一つであるウェールズの旗がないのはなぜか?という記事を書きましたが、ウェールズはかつての宗主国であるイングランドにラグビーでは勝っているんですね!
そんなウェールズで、今も親しまれている人物がオワイン・グリンドゥールです。
彼が起こした反乱はウェールズ最大の、そして最後の反乱となりました。
オワイン・グリンドゥール誕生
1359年、とあるウェールズ貴族の家にひとりの男の子が生まれます。
彼の名前はオワイン・グリンドゥール、後にウェールズの反乱を指揮することになるとは、このときは誰も思わなかったでしょう。
この77年前、ウェールズの指導者であったスラウェリン・アプ・グリフィズがイングランドによって殺害され、ウェールズは完全にイングランドの支配下に置かれました。
そのような状況で生まれたオワインは、成長すると法律を学ぶためにロンドンへ行きます。
当時のイングランドは、フランスと戦争を行うための費用を増税によって賄っていましたが、農民や労働者はこれに不満を募らせていました。
1381年、ついに大規模な農民反乱がおこります。ワット・タイラーの乱です。
ワット・タイラーを首領とする反乱軍は、規模を増大させながら、オワインが留学中のロンドンへ迫ります。
イングランド国王リチャード2世はワット・タイラーと面会しますが、国王に随伴していたロンドン市長がワット・タイラーを突如切りつけ、刺殺してしまいます。
首領を失った農民軍は蹴散らされ、リチャード2世の名声は高まったのでした。
オワインがこの話を聞いて「リチャード2世すげー!」と思ったかは定かではありませんが、1384年にオワインはリチャード2世に仕えることになります。
そしてリチャード2世の叔父であるジョン・オブ・ゴーントや、その息子ヘンリー・ボリングブロクの指揮下で活躍し、1390年頃には軍を離れて故郷ウェールズに戻り静かに暮らしていました。
しかし、時代はオワインが引退することを許しませんでした。
王位簒奪者ヘンリー4世
リチャード2世はワット・タイラーの乱を鎮めたことで自信をつけ、その2年後に親政を開始します。
しかし、リチャード2世の専制政治は、貴族たちの反感を買うことになりました。
反国王派の貴族には、辺境守護職をリチャード2世によって剥奪されたノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーや、リチャード2世のいとこであるヘンリー・ボリングブロクなどがいました。
1399年、リチャード2世がアイルランドへ遠征中なのを狙ってヘンリー・ボリングブロクが挙兵すると、ノーサンバランド伯らがこれに同調します。
リチャード2世は慌ててイングランドへ引き返すも、ウェールズとイングランドの国境付近で捕えられてしまいます。
リチャード2世は廃位させられ、ヘンリー・ボリングブロクがヘンリー4世として王位につきます。
この王座交代劇は、オワインにとって不利に働くことになりました。
リチャード2世の死とウェールズ反乱
オワインは領地が隣接しているグレイ男爵との間に、領土問題を抱えていました。
リチャード2世の頃は、オワインの言い分が認められて係争地はオワインのものとなっていましたが、ヘンリー4世の治世になると事態は一変します。
グレイはヘンリー4世の友人であり、イングランドは「係争地はグレイのものとすべき」との裁定を下したのです。
さらに、驚きのニュースがオワインのもとに飛び込んできます。廃位されていたリチャード2世が亡くなったというのです。
誰が手を下したかは、火を見るよりも明らかでした。
領地を奪われ、かつての君主も失ったオワインの心に宿ったのはヘンリー4世への復讐心、そしてイングランドへの敵対心でした。
1400年、オワインはプリンス・オブ・ウェールズを名乗り、イングランドに公然と敵対します。
オワインは支持者である彼の一族やテューダー家の人々と共にグレイを襲撃し、反乱の火蓋が切られました。
反乱を鎮圧しにやってきたヘンリー4世の軍隊に対しては正面から戦わずに、攻撃してはすぐに逃げる戦術で撃退させることに成功します。
また、オワインはイングランドの騎士であるエドマンド・モーティマーを捕えて、ヘンリー4世に身代金を要求しますが、ヘンリー4世はこれを拒否。
モーティマーはヘンリー4世に失望し、オワインの娘カトリンを娶ってウェールズに寝返ります。
このように、オワインの周りにはヘンリー4世に良い感情を抱かないイングランド人が集まってきます。
反乱の拡大とフランスの介入
1402年に制定された反ウェールズ法は、反乱を拡大させるには十分でした。この法律では、以下のような条項がありました。
- ウェールズ人はイングランドで土地を買うことはできない。
- ウェールズ人は上級官職に就くことはできない。
- ウェールズ人は武装できず、また防御機能を備えた建造物を所有することもできない。
- ウェールズ人から告訴されたイングランド人は有罪判決を受けない
- ウェールズ人の子供たちは教育を受けられず、また商売人への弟子入りも認めない。
これらは法律の一部に過ぎず、他にも結婚の制約など受け入れがたい条項が並んでいました。
これまでは、なんとかイングランドの社会で生きていこうとしていたウェールズ人たちも、この法律で自分たちの立場を悟り、ウェールズへと帰っていきます。
そのころ、オワインには海の向こうから心強い味方が来ていました。フランスです。
フランスはイングランドと敵対関係にあり、イングランド攻略の足掛かりとしてウェールズと手を組んだのです。
そして、オワインはノーサンバランド伯、モーティマーと三者協定を結びます。内容はイングランドを3人で分割すること、オワインがウェールズ、ノーサンバランド伯がイングランド北部、そしてモーティマーがイングランド南部を取るというものでした。
しかし、オワインたちの思惑は徐々に崩れていきます。
反乱の終焉とオワインの最期
反乱の歯車が狂い始めたのは、フランス軍の撤退からでした。
この頃のフランスでは国王のシャルル6世が狂気に陥り、家臣たちが宮廷闘争を行っていました。そのため、ウェールズにかまっている暇などなかったのです。
イングランドも戦略を変えてきました。これまでは積極的な攻勢に出ていたイングランド軍ですが、戦闘ではなく経済封鎖作戦を取り始めます。
武器の供給が途絶えたウェールズは、物量に勝るイングランド軍に押されはじめ、オワインの長男グリフィズをはじめとしたグリンドゥール一族が捕縛され、ロンドン塔へと送られました。
1412年、オワインはイングランド軍の待ち伏せにあい、ついに捕えられますが、反乱軍により奪還されます。オワインの生きた姿が見られたのは、これが最後でした。
翌1413年、ヘンリー4世が死去し、息子のヘンリー5世がイングランド王となります。
ヘンリー5世は父の敵対者に対して、宥和的な態度を取りました。それはオワインも例外ではなく、恩赦が認められました。
けれども、オワインはヘンリー5世の前に姿を現すことはなく、ゲリラ的に反乱活動を続けます。
オワインの息子、マレディッズも恩赦を認められましたが、「父が生きている間は受けられない」と恩赦を拒否します。
時が過ぎ1421年、マレディッズはオワインが死んだことを知らせ、恩赦を受け入れます。これは、ウェールズの反乱の終焉を意味しました。
まとめ
最後までウェールズ人としてイングランドに抵抗したオワイン・グリンドゥールには、「オワイン・グリンドゥールは再び世に現れ、ウェールズを解放する」という伝説まで生まれます。
オワイン・グリンドゥールはウェールズの象徴として、今でもウェールズ人の心の中に生きています。
ちなみに、このときオワインに味方したテューダー家から後のイングランド王ヘンリー7世が出てくるのですが、それはまたのちほど...。