こんにちは、歴くまです!
YouTubeのチャンネルを開設したこともあり、最近は以前よりもYouTubeを見るようになったのですが、歴史系の動画も多く、「歴史好きの人って結構多いんだな~」と思う今日この頃です。
明智光秀が主人公の大河ドラマ「麒麟がくる」も放送がスタートしましたし、これをきっかけにもっと歴史好きが増えたらいいなと思います!
YouTubeの話に戻りますが、歴史系の動画を見ていると、七年戦争の動画が目にとまりました。
そういえば、七年戦争は結構濃いメンツがそろっていたな、フリードリヒ大王にマリア・テレジア、ポンパドゥール夫人…。
流れをまとめてみるだけでも面白そうだと思ったので、七年戦争について書いてみることにしました!
フリードリヒ2世とマリア・テレジア
まず、七年戦争の主役である、プロイセン国王フリードリヒ2世と神聖ローマ皇后マリア・テレジアについて見ていきましょう。
フリードリヒ2世

1712年、後に大王と呼ばれるフリードリヒ2世は、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の息子として生まれました。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は二代目のプロイセン国王で、兵隊王と呼ばれるほどの軍隊好きでした。
そんな父のもとに生まれたフリードリヒは、軍事教育は施されるものの、芸術への興味関心は父の暴力によって握りつぶされていました。
ある日、フリードリヒは「こんな生活は嫌だ!」と宮廷からの逃亡を決意します。
共犯となったのはフリードリヒの親友、カッテでした。
しかし、逃亡の計画は漏れており、逃亡したその日のうちに連れ戻されてしまいます。
普通の家なら叱られるだけで済みますが、逃亡したのは次期国王です。
フリードリヒは助命されるも、カッテはフリードリヒの逃亡を助けた罪で処刑されます。
このような辛い経験をたくさん乗り越え、フリードリヒはたくましい青年に育ちました。
マリア・テレジア

1717年、マリア・テレジアは、ヨーロッパの名門中の名門であるハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世の娘として生まれました。
カール6世は、初めての女子の誕生をとても喜びました。
成長したマリア・テレジアは大変美しく、市民からの人気も高かったそうです。
カール6世に男児は無く、サリカ法に基づく男系相続を定めていたハプスブルク家は、皇帝の死後に領土を他家に奪われる恐れがありました。
ですが、カール6世はマリア・テレジアが生まれる前から一計を案じて、国事詔書を出してハプスブルク家世襲領の一体不可分を定めていました。
つまり、マリア・テレジアは、ハプスブルク家の領土全てを相続できる立場にあったのです。
膨大な遺産を受け継ぎ、絶世の美女であるマリア・テレジアの結婚相手になるのは誰か?
ヨーロッパ中の注目を集めながら、マリア・テレジアの婚約者選びが始まります。
婚約者候補から生涯の宿敵へ

マリア・テレジアの婚約者候補には、プロイセンの王太子であった5歳年上のフリードリヒの名も挙がっていました。
しかし、フリードリヒはプロテスタントであり、カトリックに改宗する可能性が無かったことから、この縁談は立ち消えとなります。
マリア・テレジアのハートを射止めたのは、ロートリンゲン(ロレーヌ)公レオポルトの次男フランツ・シュテファンでした。
1736年、二人は婚礼を挙げます。
王族の結婚≒政略結婚であった当時において、二人は非常に珍しい恋愛結婚でした!
シュレージエン侵攻

1740年、カール6世が崩御すると、国事詔書など糞くらえとばかりに周辺国はマリア・テレジアのハプスブルク家領相続にいちゃもんをつけ、領土的野心をあらわにし始めます。
真っ先に動いたのは、かつての婚約者候補で既にプロイセン王となっていたフリードリヒ2世でした。
フリードリヒは、宣戦布告もなしに突如シュレージエンに侵攻します。
シュレージエンは、ハプスブルク家領の北端に位置し、プロイセンと接する地域です。
マリア・テレジアは、フリードリヒを「シュレージエン泥棒」と罵り、かつての婚約者候補は生涯の宿敵となったのです。
オーストリア継承戦争

もちろん、オーストリア(ハプスブルク家)に反旗を翻したのは、プロイセンだけではありません。
帝国内ではザクセン、バイエルンが敵に回り、外からは大国フランス、スペイン、スウェーデンに囲まれていました。
オーストリアには、イギリスとロシアが味方に付いていましたが、イギリスは植民地で、ロシアはスウェーデンとの戦争に勤しんでいました。
オーストリアは、プロイセンと直接対決するしかなくなりますが、戦上手のフリードリヒと鍛えられたプロイセン軍の前に敗北を重ねます。
息子の誕生と、反撃

マリア・テレジア
瀕死のオーストリアに救いの手を差し伸べたのは、意外な人々でした。
1741年、フランツとマリア・テレジアの間に、男児ヨーゼフが誕生します。
オーストリアの士気は上がったものの、戦闘には敗北し続け状況は悪化。
フランツは、フランスの後ろ楯を得たバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトに神聖ローマ皇帝位を奪い取られてしまいます。
窮地に陥ったマリア・テレジアは、最後の希望を抱き異民族の国ハンガリーに乗り込みます。
ハンガリーはハプスブルク家領でしたが、オーストリア本国の主要民族であるドイツ人とは異なるマジャール人が多数派で、ドイツ人に反感を持っている者もいました。
マリア・テレジアはハンガリー女王として彼らの前に現れ、議会で幼いヨーゼフを抱きながら「この子を抱いた私を助けられるのは、あなた方だけなのです!」と訴えます。
ハンガリーの人々は心を打たれ、資金と兵力をオーストリアに送ることを約束します。
プロイセンの戦線離脱とオーストリアの反撃

ハンガリーの助力を得て、オーストリアは反撃を開始します。
しかし、コトゥジッツの戦いでプロイセン軍に敗北し、マリア・テレジアはこれ以上プロイセンとフランスを同時に相手にするのは難しいと考えるようになります。
1742年7月、イギリスの仲介でブレスラウ条約が締結され、オーストリアはシュレージエンとボヘミアの一部をプロイセンに割譲します。
このときのマリア・テレジアの悔しさは相当なものだったでしょう。
しかし、背に腹は代えられません。
オーストリアは、シュレージエン奪回を一旦諦め、フランス・バイエルンとの戦争に集中することになります。
ドレスデン条約
オーストリアはシュレージエンを失った代わりに、大きな助力を得ていました。
イギリスが大陸に派兵したのです。
オーストリア・イギリス連合軍は、プロイセンがいなくなったフランス・バイエルン連合軍に反撃を開始し、ライン川にまで勢力を伸ばします。
驚いたのはフリードリヒ、フランス・バイエルンがこのまま負けでもしたら、次にオーストリアが刃を突き付けるのは、シュレージエンを奪ったプロイセンです。
そうはさせじと、フリードリヒは皇帝カール7世(バイエルン)をオーストリアから守るという口実で、オーストリアに侵攻します。
順調に進撃していたプロイセン軍でしたが、占領地のボヘミアで現地貴族・住民の協力を受けることができませんでした。
これにより、プロイセン軍は補給切れや疫病の蔓延に苦しめられることとなります。
プロイセン軍はボヘミアからの撤退を開始し、これを好機と見たオーストリアは、逆にプロイセン領となっていたシュレージエンに侵攻します。
しかし、オーストリア軍は連戦の疲労と冬の寒さに苦しめられ、プロイセン軍が反撃に転じるとシュレージエンから撤退します。
プロイセンはケッセルスドルフの戦いでオーストリアに勝利しますが、すでに継戦能力を失っていました。
そして、1745年12月25日、ドレスデン条約が結ばれ、オーストリアとプロイセンは講和します。
その条件は、プロイセン有利な戦況だったことを考えると、あまりにも寛大な条件での講和でした。
- オーストリアはプロイセンのシュレージエン領有を改めて認める。
- プロイセンはフランツ1世の神聖ローマ皇帝即位を認める。
このときフリードリヒは、ロシアが裏でオーストリアと手を組み参戦しようとしているとの情報をつかんでいました。
ロシアと戦争になるリスクを避け、シュレージエンの領有を再びオーストリアに認めさせることで、プロイセンは列強として他国から一目置かれる存在となったのです。
3枚のペチコート作戦
1756年、オーストリア・フランス・ロシアは同盟を締結します。
この同盟は、三国の事実上のトップであるオーストリアのマリア・テレジア、フランスのポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝の三人が全員女性であったことから、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれました。
ペチコートは、当時の女性ものの下着です。
この同盟はただの同盟ではなく、プロイセンに対抗するために作られた包囲網でした。
オーストリア継承戦争ではプロイセン・フランス・バイエルンに包囲網を組まれていたオーストリアが、今度は包囲網を組む側に回ったのです!
外交革命
この同盟は、当時の外交情勢からすると、画期的な出来事でした。
長年対立してきたオーストリアとフランス、すなわちハプスブルク家とブルボン家が手を組んだのです!
両家の対立は15世紀まで遡ります。
1477年、ブルゴーニュ公国を治めていたシャルル突進公が亡くなると、肥沃なブルゴーニュと突進公の娘のマリーを巡って内乱が勃発します。
マリーは、貴族たちから権利の拡大と、フランス王太子シャルルとの結婚を迫られます。
マリーはこれを拒否し、神聖ローマ皇帝の息子で婚約者のマクシミリアンに救援の手紙を出します。
シャルルはブルボン家、マクシミリアンはハプスブルク家、このときから約300年、両家は対立を続けてきていたのです。
しかし、マリア・テレジアやオーストリア宰相カウニッツは、オーストリア継承戦争の経験から、最も警戒すべき敵はプロイセンだという印象を持つことになります。
そして、大陸になかなか援軍を派遣してくれなかったイギリスにも不信感を持つことになり、オーストリアは植民地の係争でイギリスと敵対していたフランスに接近することになるのです。
ポンパドゥール夫人

三国同盟の一角をなすフランスの政治を操っていたのは、国王ルイ15世の愛妾であるポンパドゥール夫人でした。
ブルジョワ階級の娘として生まれた彼女は、徴税請負人のシャルルと結婚します。
そして、美貌と教養を兼ね備えていた彼女は、サロンでルイ15世と出会い、見初められます。
ルイ15世は彼女にポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えて夫と別居させ、正式に公妾にしてしまいました。
公妾は、国から正式に認められた王の愛妾ということです。
公妾となったポンパドゥール夫人は、政治に関心の薄いルイ15世に代わってフランスの政治を操る影の実力者となりました。
そのような事情から、オーストラリア宰相カウニッツはルイ15世ではなくポンパドゥール夫人に同盟を打診し、墺仏同盟が成立するのです。
エリザヴェータ

エリザヴェータはロシアの女帝で、初代ロシア皇帝であるピョートル大帝の娘でした。
非嫡出子であったため、後継者候補に名前は上がるものの、なかなか皇帝になることができませんでした。
ピョートル大帝の兄であるイヴァン5世の曾孫がイヴァン6世として即位すると、政府は皇帝にとって脅威になり得るエリザヴェータを修道院に幽閉しようとします。
これを察知した彼女は、先手を打って近衛軍に政府要人を拘束させました。
これにより、エリザヴェータは帝位を奪取し、イヴァン6世は死ぬまで幽閉されることになりました。
エリザヴェータは早くに政治への興味を失いますが、フリードリヒに対しては無関心ではいられなかったようです。
個人的にフリードリヒを嫌っていたエリザヴェータは、イギリスとプロイセンの間で防御同盟が結ばれると、これをイギリスの裏切りとみて反プロイセン側につくことを決めます。
そして、七年戦争でロシア軍はプロイセンを大いに苦しめることになります。
まとめ
七年戦争についてまとめようとしたら、結構長くなってしまったので、今回はオーストリア継承戦争まででいったん区切ります。(まさかの七年戦争まで行かないという…。)
フリードリヒ大王とマリア・テレジア。二人の傑物が結婚していたらどうなっていたのか…、と妄想するのは私だけではないでしょう。
もしかしたら、ドイツ、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーにまたがる大帝国が出現していたかもしれませんね!
でも、現実の歴史ではフリードリヒとマリア・テレジアは不俱戴天の敵となります。
そして、オーストリア継承戦争が終わり、戦いの決着は七年戦争へと持ち越されることになるのです。