こんにちは、歴くまです。
最近、イランに関連するニュースが増えてきました。
タンカー攻撃(実際にイランがやったのかは分かりませんが…)やアメリカの無人偵察機撃墜などで、イランとアメリカの間で緊張が高まっています。
今回は、近代においてイランがアメリカをはじめとした国際社会とどのように関わってきたのかを見ていきたいと思います。
イランを現在の形にしたイラン革命
イランの政体は、現在のイスラム共和制になる前は君主制でした。
第一次世界大戦後、イギリスとソ連がイランへの影響力を強めてきました。
これに反発したイラン国民はコサックのレザー・ハーンのもとに集結します。
その結果、これまでイランを支配していたガージャール朝は滅びます。
1925年、レザー・ハーンはレザー・シャーとして皇帝に即位、パフラヴィー朝が成立します。
2代目のモハンマド・レザー・シャーは親米英的で、農地改革や女性参政権、国営企業の民間払い下げなどの親米近代化政策「白色革命」を進めます。
しかし、この政策は経済格差を拡大させ、権利意識に目覚めた国民は独裁的な皇帝を非難するようになります。
そして1979年、イラン革命が勃発し、モハンマド・レザー・シャーはエジプトへ亡命。
イラン・イスラム共和国が成立し、ホメイニ師が最高指導者となります。
アメリカとの関係悪化
イラン・イスラム共和国成立からわずか7カ月後、1979年11月に衝撃的事件が起こります。
イランの首都、テヘランにあるアメリカ大使館に400人もの学生が乱入し、大使館関係者を人質にとったのです。
原因はアメリカが元皇帝のモハンマド・レザー・シャーを、ガン治療という名目で事実上の亡命を受け入れたからです。
学生たちは元皇帝の引き渡しを要求、イラン政府はこれを黙認します。
この事件はすぐには解決せず、イラン側もアメリカの救出作戦に備えて人質を分散したため、事態は長期化するものと思われました。
しかし、1980年7月、モハンマド・レザー・シャーが急死します。
これにより、学生らは人質を監禁しておく大義名分を失いました。
そして1981年1月、人質が全員解放されます。
大使館を占拠されてから、1年2カ月が過ぎていました。
ですが、この事件についてイラン政府からアメリカ政府に対して直接の謝罪は無く、これが現在まで続くイランとアメリカの対立において、大きなしこりになっています。
現代のイランと国際社会
2019年6月現在、イランとアメリカの対立は深まっています。
24日、アメリカのトランプ大統領は、イランの最高指導者ハメネイ師を制裁の対象としました。
イランとアメリカは仲が悪い一方で、イランと日本は比較的良好な関係を築いています。
今月は安倍首相が革命後初めて、現役の首相としてイランを訪問しました。
イランとアメリカの仲介役になろうという意図もあったと思います。
しかし、ハメネイ師はトランプ大統領と交渉するつもりはないと拒絶。
イランと日本の関係は深まったものの、アメリカとイランの対立の根深さを見せつけられる形となりました。
一方で、イランは中国、ロシアを中心とした上海協力機構に参加するなど、中国、ロシアとの関係を強めています。
また、EU諸国もイランは重要な貿易相手国であり、2015年にはイラン、イギリス双方の大使館が再開するなど関係は改善してきています。
まとめ
- パフラヴィー朝の白色革命により経済格差が拡大し、イラン革命につながった。
- 革命によりイランは親米から反米に、アメリカ大使館人質事件が起こった。
- 現在イランは多くの国々と友好関係を築いているが、アメリカとは未だに仲が悪い。
20世紀以降のイランの歴史を簡単に紹介しました。
今後もイランをめぐる情勢に注目です。