こんにちは、歴くまです。
みなさんは、お城を観に行ったことはありますか?
私は去年、金沢城へ行きましたが、かつて金沢大学のキャンパスが金沢城内にあったと知り驚きました。
さらに、研究室の先輩にこのことを話すと、
「あー、俺の高校もお城の中にあったよ!」
と言われてさらに驚いたのを覚えています。
なので、日本全国のお城の中にある学校について調べてみました!
これからいくつか紹介しますが、調べればもっと出てくると思います。
その桜、まさに絶景 奈良県立郡山高等学校(郡山城)
郡山城は、戦国時代は筒井氏が拠点としていました。
豊臣秀吉の時代になると、筒井氏は伊賀上野城に転封となり、秀吉の弟の秀長が城主となります。
秀長が没し、その養子秀保も死去すると、五奉行の一人である増田長盛が城主となります。
その長盛も関ヶ原の戦い後には高野山へ追放の末に自害。
郡山城はさまざま城主を経て、生類憐みの令を出した徳川綱吉の片腕である柳沢吉保の息子、吉里が入城します。
それから、柳沢氏の統治のもと郡山城は安定していましたが、江戸時代末期に火事で城の住居部分が全焼してしまいます。
郡山藩は再建に着手するものの、明治維新を迎えたことで修理は中止され、郡山城は破却されます。
そして1881年(明治14年)に旧郡山中学校の校舎が二の丸に建設され、今の郡山高校へとなっていくのです。
親戚が関西にいるということもあり、私も何度か郡山城を訪れましたが、郡山城の桜はまさに絶景!
何度も訪れたくなる不思議な魅力があります。
日本さくら名所100選にも選定されています。
あの戦国武将ゆかりの地! 長野県上田高等学校(上田城)
戦国時代で一、二を争う人気武将といえば?
そう、真田幸村です。
幸村とその父昌幸は、この上田城で徳川家康の息子秀忠率いる徳川の大軍を釘付けにしました。
結果、秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合わず、家康は怒ってしばらく秀忠と顔を合せなかったと言われています。
この徳川と真田の対立ですが、きっかけは領土問題でした。
真田は織田信長による甲州征伐の際に武田氏から北条氏に寝返りますが、その後にまた裏切って徳川方につきます。
当然、北条と徳川の間で争いが起きますが、最終的に講和することになりました。
その時、家康は昌幸に真田領となっていた沼田領を明け渡すように命じましたが、昌幸はこれを拒否。
昌幸は続いて上杉に寝返り、徳川との対決姿勢を強めていきました。
徳川や北条がたびたび上田城を攻撃するも、真田はこれを撃退します。
そして、関ヶ原直前の秀忠軍を迎え撃つことになるわけです。
ちなみに、上田高校の正門は上田城主屋敷門をそのまま利用しています。
こんなに歴史を感じられるところで歴史の授業を受けられるなんて…、羨ましいの極みですね!
水の中に沈む城!? 佐賀県立佐賀西高等学校(佐賀城)
佐賀西高校の前身は、藩校『弘道館』です。
1781年(天明元年)、佐賀藩第8代藩主鍋島治茂が佐賀城付近に弘道館を設立しました。
早稲田大学の創始者である大隈重信をはじめ、江藤新平、副島種臣らが弘道館で学び、幕末、明治で活躍しました。
明治新政府の学制制定により弘道館は廃止となりますが、その教育理念は佐賀西高校に受け継がれました。
学校がある佐賀城は周囲を幾重にも外堀が囲んでいます。
防衛には水を流し、主要部以外は水没させる仕掛けになっていたことから『沈み城』とも呼ばれてきました。
明治初期、弘道館で学んだ江藤新平が不満を持つ士族を集めて佐賀の乱を起こします。
この時、佐賀城の建物の大半は消失してしまいました。
現在城跡には佐賀中学校の他、佐賀県庁や放送局などの公共施設があり、佐賀県の中心地となっています。
まとめ
歴史ある城で勉強できるのは、とても幸せだと思います。
先輩に、先輩の高校が中にある城の歴史について話したのですが、
「歴史好きじゃないと、そもそも知らんわ~」
と言われてしまいました(笑)
お城の中になくても、学校があるところは実は昔戦場だった…、みたいなことがあるかもしれません。
出身校周辺の歴史や地理を調べてみると、意外な発見があるかもしれませんね!