幕末に天皇が二人いた!東武皇帝と呼ばれた皇族、北白川宮能久親王 | 歴くまブログ

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幕末に天皇が二人いた!東武皇帝と呼ばれた皇族、北白川宮能久親王

こんにちは、歴くまです!

日本に天皇が二人いた時代と聞いて、真っ先に思い浮かべるのは南北朝時代と思います。

京都を本拠地とし、足利氏の後ろ楯を得ていた北朝と、現在の奈良県吉野に本拠地を置いた南朝に分かれて、二人の天皇が日本に存在した時代がありました。

しかし、天皇が二人いたのは、南北朝時代だけではなかったのです。

今回の舞台は幕末。討幕派と佐幕派が日本を二分して争った時代に突如出現した、東武皇帝について見ていきます。

 

二百年以上続いた江戸幕府の終焉

時は幕末、二百年以上も太平の世を築いてきた江戸幕府も、ペリー来航に始まる海外諸国に対する弱腰姿勢により、終焉の時を迎えようとしていました。

江戸時代における天皇は、名目上は日本の頂点に君臨しながら、実権は徳川将軍家を筆頭とする江戸幕府に握られていました。

しかし、幕府が終わりに近づくにつれ、倒幕派は天皇の権威を活用しようと考えるようになります。

結果、京都は倒幕派の温床となり、毎日のように倒幕派と佐幕派の争いが起こっていました。佐幕派の中で特に有名なのが新選組ですが、新選組についてはまた別の機会に書くことにします。

いずれにせよ、倒幕の機運は高まっていき、戦争の時は近づいていました。

 

戊辰戦争

大政奉還

大政奉還

慶応三年(1867年)10月14日、倒幕派を主導していた薩摩藩・長州藩に対し、明治天皇の名の下に、討幕の密勅が下されます。

薩摩藩と長州藩は武力での倒幕を画策しており、江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜が、本来であれば天皇が持ってるはずの政治の実権を握っていることを口実に、江戸幕府を武力で滅ぼそうとしていました。

しかし、慶喜はその動きを察知しており、先手を打ちます。

大政奉還です。

大政奉還により、政治の実権を朝廷に返還した慶喜に対し、倒幕派は討伐の口実がなくなってしまいました。

どうしても幕府を倒したい薩摩藩は、江戸の薩摩藩邸にいた勤王派浪士達を動かし、関東各地で挙兵し、幕府を挑発します。

12月23日には江戸城西ノ丸が火災により消失。また、江戸市中の警護にあたっていた庄内藩の屯所への発砲事件も発生します。

これら一連の事件は、薩摩藩の仕業と噂され、度重なる挑発に業を煮やした佐幕派各藩は薩摩藩への討伐へと動きます。

この勢いは、将軍慶喜でも止めることはできませんでした。

慶応4年(1868年)1月2日、幕府の軍艦が兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃したのを皮切りに、戊辰戦争が勃発します。

 

慶喜、江戸へ逃げる

鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)

戊辰戦争は新政府軍と旧幕府軍の戦いであったことから、兵器の性能差が勝敗を分けたと思われがちです。

しかし、実際は旧幕府軍の方が兵器の性能、兵力共に上回っていました。

普通であれば、旧幕府軍が新政府軍を圧倒するはずですが、指揮系統の混乱などにより、新政府軍が有利に戦闘を進めます。

この情勢にさらに追い打ちをかけたのが、錦の御旗です。

1月4日、新政府軍を官軍とする朝命が下り、錦の御旗が授けられました。

錦の御旗が戦場に翻った時、旧幕府軍は自分たちが朝敵・賊軍となったことを知り、大いに動揺します。

さらに1月6日、慶喜は旧幕府軍を見捨て、大阪から海路で江戸へ脱出します。

これにより、旧幕府軍は新政府軍と戦う大義名分を失い瓦解。

新政府軍は東進し、江戸に迫ります。

 

輪王寺宮と上野戦争

上野戦争(右上に本能寺合戰之圖と書かれているが、絵は上野戦争を描いたもの)

前置きが長くなりましたが、いよいよ東武皇帝の登場です!

...と、いきたいところですが、この頃その人物は輪王寺宮りんのうじのみやと呼ばれていました。

輪王寺宮は当時21歳、北朝第3代崇光天皇の男系15世子孫で、明治天皇の義理の叔父に当たります。

輪王寺宮は出家していたものの、皇室の血を引いていることから、徳川慶喜の警護部隊で、江戸開城後も新政府に反抗していた彰義隊に旗印として担ぎあげられます。

各地で幕府再興を掲げて暗躍する彰義隊に対し、ついに新政府軍は彰義隊の本拠地である上野寛永寺を攻撃します。

この上野戦争に彰義隊は敗北。

輪王寺宮は寛永寺を脱出し、榎本武揚の手引きで幕府の艦船・長鯨丸に乗り込み東北へ避難しました。

 

東武皇帝

輪王寺宮が逃れた東北地方の諸藩は、元々は新政府が派遣した奥羽鎮撫総督に従っていました。

諸藩は旧幕府軍の中心であった会津藩や、前年の発砲事件等もあり薩摩藩と仲が悪くなっていた庄内藩が朝敵扱いされていたことに対し、赦免嘆願を行います。

しかし、新政府がこれを拒絶したことで、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、新政府に対抗していくことになります。

列藩同盟は、天皇に代わる主として輪王寺宮に政治面・軍事面を主導する総裁についてほしいと考え、東北に逃れてきた輪王寺宮に総裁就任を打診します。

輪王寺宮としては、新政府に対する反感はあったものの、出家しているため軍事面での指導はできないと、政治面での盟主に就任することにしました。

7月12日、輪王寺宮は白石城に入って列藩会議に出席し、列藩同盟の盟主となります。

この時、輪王寺宮は東武皇帝あるいは東武天皇として、新政府の明治天皇に対抗する役割をしていたという説があります。

当時のニューヨーク・タイムズにも「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たな天皇を擁立した)」とあり、輪王寺宮が奥羽越列藩同盟のトップに君臨していたことが分かります。

 

奥羽越諸藩の降伏と輪王寺宮のその後

北白川宮能久親王(東武皇帝)

奥羽越列藩同盟は指揮系統が統一されておらず、藩ごとに新政府に攻撃され、降伏していきました。

9月には列藩同盟の中心であった仙台藩が降伏し、列藩同盟は事実上消滅します。

輪王寺宮は京都へと送られ、明治天皇の義理の叔父としての地位、そして親王の身分も解かれるという厳しい処分を受けます。

翌年には処分を解かれ、皇族に復帰。

1870年にはプロイセンへ留学しています。

留学中に弟の北白川宮智成親王が若くして亡くなります。遺言により輪王寺宮は北白川宮家を相続し、北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうとなりました。

1893年、日清戦争により清から日本に割譲された台湾へ出征。

現地に残る清兵や抵抗する台湾住民と戦いますが、現地でマラリアにかかり、台湾平定直前に薨去。48年の生涯を閉じます。

 

まとめ

北白川宮能久親王像(北の丸公園)

親王家の庶子として生まれ、若くして江戸で僧侶となった輪王寺宮。

平穏の世であれば、江戸で高名な僧侶として一生を終えたかもしれませんが、時代がそうなることを許しませんでした。

皇族でありながら江戸、東北、ドイツ、台湾と各地を渡り歩き、時には自分の出身である天皇家に刃向かう朝敵の盟主となることもあった、その数奇な人生はとても興味深いです。

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