こんにちは、歴くまです!
「子子子子子子子子子子子子」
いきなりですが、これはなんと読むでしょうか?
答えは「猫の子仔猫、獅子の子仔獅子」と読みます。
この問題を出題したといわれている嵯峨天皇ですが、こんな問題を考えつくだけあって、非常に子沢山でした。
今回は、日本史上で子沢山と言われている人物について見ていこうと思います。
嵯峨天皇
まずは冒頭の紹介で述べた嵯峨天皇から。
嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子で、空海、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるほど達筆でした。
そんな嵯峨天皇、なんと50人もの子供を作っています!
天皇家の血筋を絶やさないことは重要ですが、それにしても作りすぎでは(笑)
当時の天皇家の財政状況では、50人もの親王、内親王を養っていく余裕はありませんでした。
そこで、嵯峨天皇は臣籍降下を実行します。
臣籍降下とは、読んで字のごとく、天皇家から臣籍に入る、つまり皇族としての地位を失うということです。
日本史を学んでいると「桓武平氏」とか「清和源氏」という言葉が出てくると思いますが、これは桓武天皇を祖とする平氏、清和天皇を祖とする源氏という意味です。
例えば、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝は、清和天皇の第6皇子である貞純親王の子、源経基を祖とする清和源氏になります。
臣籍降下してから一代目、二代目は、まだ朝廷において貴族としての地位を約束されていましたが、三代目以降ともなると没落する家も多く、地方に下って土着の豪族となるものも多かったそうです。
関東で反乱を起こした平将門などは、その最たる例でしょう。(実は、将門は若いころ京に出仕しているのですが、高い地位を得ることはできませんでした。)
話を嵯峨天皇に戻しましょう。
嵯峨天皇は、臣籍降下する子供たちへ「源氏」の姓を与えます。これが、嵯峨源氏です。
ちなみに源氏は、北魏の皇帝である太武帝が将軍である禿髪破羌(とくはつはきょう)に、禿髪氏と拓跋氏(たくばつし、太武帝の氏族)の源が同じであるとして、源氏の姓を与えた故事に由来します。
嵯峨源氏は、源常(ときわ)、源信(まこと)、源融(とおる)が相次いで左大臣になるなど、朝廷の一大勢力として君臨しますが、彼らの孫の代になると没落し、地方へ下って武家となります。
そんな嵯峨源氏ですが、あまり子孫に有名な人物がいません…。
やはり、清和源氏に比べると、ネームバリューでは負けてしまいます。(清和源氏には源頼朝、足利尊氏、新田義貞らがいます。)
源氏は祖とする天皇別に21の流派があるので、それぞれ誰がいるのか調べてみると面白いですよ!
徳川家斉
天皇家の子沢山が嵯峨天皇なら、将軍家の子沢山は徳川家斉です。
家斉は、嵯峨天皇を上回る53人もの子供をもうけています!
もちろん、これらの子をすべて育てるとなれば、幕府の財政を傾けてしまいます。(あれ、嵯峨天皇と同じにおいが…。)
ここで、家斉は男子を養子に出すという作戦を発動します。
要するに、天皇家の臣籍降下と同じようなことを、他家に養子に出すという形で実行したわけですね。
基本的に、養子は跡継ぎがいないからという理由でもらうものですが、家斉の場合は、実子がいる藩にでも構わず息子を養子に出していました。
家斉の子供の多くは御三家を始め、有力な大名家に養子に行ったり、嫁いだりしていました。
これは、見方を変えれば養子を利用した大名統制戦略と見ることもできます。
子沢山だった家斉ですが、政治的にはどうだったのか?
将軍に就任した家斉は、前の将軍家治の時代に重用された田沼意次を罷免し、陸奥白河藩主の松平定信を老中首座とします。
田沼意次は、これまでの緊縮財政策を捨てて積極的な政策を取り、商業を活性化させることには成功しました。
しかし、のちに賄賂政治と呼ばれるほど賄賂が横行し、田沼時代は悪政の代名詞ともなってしまいます。
そのような背景もあり、家斉は定信に幕政の改革を委ねます。
定信が行った改革が、寛政の改革です。
定信は緊縮財政と風紀の取り締まり、倹約の強要により幕府財政の安定化を図りますが、行き過ぎた思想統制の影響もあり、経済・文化は停滞します。
結局、家斉は定信への信頼をなくし、庶民の反発もあって定信は失脚します。
白河の清き流れに魚棲まず 濁れる田沼今は恋しき
意訳すると、「定信(白河は陸奥白河藩主である松平定信のことを指している)の政治は厳しすぎる、賄賂政治でも田沼の時代が恋しい」となります。
でも、そうさせた原因は、子供を多くの大名家に嫁がせ、幕府の財政を傾かせた家斉にあるのかもしれません。
まとめ
今回は日本史上の子沢山な人物について書いてみました。
蛇足ですが、家斉は「オットセイ将軍」と呼ばれていたそうです。
理由は、精力増強のためにオットセイのあそこを粉末状にしたものを飲んでいたからだとか。
子供をたくさん作るのも、楽じゃないみたいですね(笑)