今年、2019年は甲府の町ができてから500年の記念する年です。
甲府市でも「こうふ開府500年」と称して様々なイベントが行われています。
では、甲府の町を作ったのはどのような人たちだったのでしょうか?
今回は長く甲斐の国(現在の山梨県)を支配していた甲斐源氏の中でも武田信虎、信玄、勝頼の三代に焦点を当てます。
甲府を作った武田信虎
信虎の時代、武田氏の本拠地は甲府から10kmほど東の石和にありました。
1519年(永正16年)、信虎は本拠を甲府に移し、躑躅ヶ崎館の建設に着手します。
これにより、500年甲斐国、そして山梨県の中心となる甲府の歴史が始まりました。
しかし、この移転は大井氏など有力国人の反発を招き、信虎は甲斐統一に奔走することになります。
甲斐統一後は今まで何度も戦ってきた今川氏に娘を嫁がせ和睦します。
しかし1541年(天文10年)、娘に会うために今川義元のもとを訪れた信虎が甲斐の地を再び踏むことはありませんでした。
嫡男の晴信(後の信玄)が甲駿国境を封鎖し、信虎は甲斐を追放されたのです。
その後、信虎は信玄よりも長生きし、信濃高遠で81年の生涯を閉じました。
葬儀は甲府の大泉寺で行われました。信虎は死んでやっと甲斐に帰ることができたのです。
信虎は戦争ばかりで民に重税をかけたなどネガティブなイメージがありますが、近年では甲府を作った人として再評価されつつあります。
2018年、甲府駅北口に武田信虎像が建立されたので、皆さんもぜひ見に行ってみてください!
甲府を発展させた武田信玄
私には甲府出身の知り合いがいますが、彼は武田信玄のことを「信玄公」と言います。
500年経っても武田信玄は甲府市民から敬愛されています。
1521年(大永元年)、信玄は躑躅ヶ崎館の北にある要害山城で誕生しました。
その時、父の信虎は甲府近郊で今川氏と交戦しており、母の大井夫人はより安全な要害山城へ退いていました。
1536年(天文5年)に元服し、「晴信」と名乗ります。
そして19歳のとき、板垣信方、甘利虎泰ら譜代の家臣を味方につけて信虎を追放します。
原因は信虎が晴信を廃嫡し、弟の信繁に家督を継がせようとしていたからとも、信虎が家臣を殺したことで信頼を失っていたからとも言われています。
しかし、晴信による信虎追放を正当化するために武田氏が信虎を悪逆非道な君主に仕立て上げたとの見方もあり、信虎の業績は再評価されつつあります。
晴信は内政、軍事面共に優れた手腕を発揮します。
内政では甲州法度之次第(信玄家法)を定め、法律をもとに統治を行いました。また、当時暴れ川だった釜無川の横に信玄堤という堤防を築き、甲府盆地を水害から守りました。
軍事では北条、今川と甲相駿三国同盟を結び、信濃を平定しました。上杉謙信との5度にわたる川中島の戦いは有名です。
1572年(元亀3年)、将軍足利義昭の信長討伐令に呼応し、信玄は京へ向けて軍を発します。
三方ヶ原で徳川家康を破るなど快進撃を続けた武田軍でしたが、突如信玄の体調が悪化します。
そして甲斐へ引き返す途中、信濃駒場において53歳で亡くなります。 甲府駅南口には武田信玄像があり、今でも甲府を見守っています。
甲府から移った武田勝頼
勝頼は信玄の四男として生まれ、最初は後継者と目されていませんでした。
母は信濃(現在の長野県)の領主、諏訪氏の娘の諏訪氏諏訪御料人で勝頼は当初諏訪氏を継いでいました。
しかし信玄の嫡男義信は、父の追放を企て廃嫡されます。次男の竜芳は盲目のため継ぐことができず、三男の信之も11歳で夭逝したため、勝頼が跡継ぎになります。
勝頼は父信玄が落とせなかった高天神城を陥落させ、武田家最大の版図を作り上げました。
しかし、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた後は、家臣たちの離反が相次いで起こります。
そんな中、勝頼は本拠地を甲府から新府(現在の韮崎市)に移します。ところが、新府に移って一年もたたないうちに織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻します。
勝頼は岩殿城(現在の大月市)にいた家臣の小山田信茂を頼り落ち延びますが、信茂は勝頼を裏切ります。前に信茂、後ろに織田・徳川と逃げ場を無くした勝頼は天目山で妻子と共に自害しました。
これにより、400年余り続いた甲斐武田氏の宗家は断絶しました。
まとめ
甲府にゆかりのある武田三代を紹介しましたが、いかがだったでしょうか?
今でも武田氏は甲府を作り、発展させた人々として、甲府市民に愛されています。
みなさんも是非甲府を訪ねて、武田氏の歴史を肌で感じてみてください!