こんにちは、歴くまです!
学生の時って、よくあだ名をつけ合ったりしますよね。
名字が浜田なら「ハマちゃん」、松本なら「マッちゃん」みたいに、あだ名で呼ばれることの方が多かったりします。
でも、日本史ではあだ名を通り越して、「お前の名前はこれだ!」と色々な人を改名させまくった天皇がいました。
それが、孝謙天皇(称徳天皇)。
孝謙天皇は、臣下に変な名前を付けたり、僧侶である道鏡を寵愛して天皇の位を譲ろうとしたりと、色々と突っ込みどころのある人でした。
今回は、そんな孝謙天皇について見ていきます。
孝謙天皇の父は、大仏を建てた聖武天皇
孝謙天皇は、奈良の大仏を建立した聖武天皇と、日本史上初めて人臣(天皇家以外)から皇后になった光明皇后との間に生まれました。即位前の名前は「阿倍内親王」です。
聖武天皇には、他に安積親王という男児がいましたが、母の県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)は強力な後ろ楯がいませんでした。
それに比べて、阿倍内親王は母の光明皇后が藤原氏という、最強の後ろ楯がありました。
そのため、安積親王ではなく、阿倍内親王が立太子することになります。
橘奈良麻呂の乱と藤原仲麻呂の台頭
天平勝宝元年(749年)、父である聖武天皇が譲位し、阿倍内親王が即位、孝謙天皇となります。
天平勝宝8年(756年)、聖武天皇は崩御しますが、その際に天武天皇の孫である道祖王(ふなどおう)を皇太子とせよと言い残します。
しかし、道祖王は度々問題行為を起こしたとして、皇太子を廃されてしまいます。
代わって皇太子に立てられたのは、道祖王と同じ天武天皇の孫である大炊王、後の淳仁天皇です。
大炊王は天皇の孫でありながら官位も受けず、そこまで目立った存在ではありませんでした。
しかし、光明皇太后の甥に当たる藤原仲麻呂の強烈な後押しを受けて、突如皇太子となります。
皇太子の後ろ楯となった仲麻呂の権力は増大ますが、それを快く思わない人がいました。
それが橘奈良麻呂、彼は藤原氏の台頭に危機感を覚え、天皇を廃して塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を選び、橘氏を政権の中枢に返り咲かせようと考えました。
しかし、計画は事前に発覚し、仲麻呂に先手を打たれてしまいます。
捕縛された奈良麻呂一味は処罰を受けることになりますが、ここで孝謙天皇の改名スキルが遺憾なく発揮されます。
- 黄文王 → 久奈多夫礼(くなたぶれ=愚かな者)
- 道祖王 → 麻度比(まどい=惑い者)
- 賀茂角足 → 乃呂志(のろし=のろま者)
彼らは改名させられた上に、杖で打たれるなどの激しい拷問を受け、獄死したと伝えられています。
仲麻呂はこの乱で自らに不満を持つ勢力を掃討することができ、その権力はますます高まっていくことになります。
藤原仲麻呂の乱
天平宝字2年(758年)、孝謙天皇は体調不良と、母である光明皇太后に仕えることを理由に譲位します。
大炊王が即位し淳仁天皇となると、仲麻呂の権勢に並ぶものはいなくなります。
仲麻呂は淳仁天皇から「藤原恵美朝臣」という姓と、「押勝」の名が与えられ、「恵美押勝」と名乗るようになります。
しかし、光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇と淳仁天皇の間に不和が生じます。
病気にかかった孝謙上皇は、看病にあたり、自分を治してくれた僧侶・道鏡を寵愛するようになります。
孝謙天皇と一緒の都に住んでいた淳仁天皇は、平城京に移りますが、孝謙上皇は法華寺に居を構えたことで、二人の不和が表面化します。
仲麻呂は道鏡を退けるように進言しますが、これが孝謙上皇の不興を買い、孝謙上皇・道鏡 VS 淳仁天皇・藤原仲麻呂の構図が出来上がります。
仲麻呂は、息子たちを軍事の要職に就け、先手を打とうとしますが、これを察知した孝謙上皇は淳仁天皇から軍事指揮権の象徴である鈴印(御璽と駅印)を回収してしまします。
鈴印が無ければ軍を動かせず、朝敵となってしまうことを恐れた仲麻呂は、琵琶湖を渡って越前に逃れようとしますが逆風で失敗。
仲麻呂は琵琶湖畔で朝廷軍と応戦して敗れると、また琵琶湖を渡って逃げようとするも、捕えられて斬られます。
かつては孝謙上皇のもとで権勢を振るった仲麻呂のあえない最期でした。
宇佐八幡宮の神託
さて、孝謙上皇・道鏡 VS 淳仁天皇・藤原仲麻呂のバトルに勝利した孝謙上皇ですが、敗れた淳仁天皇を廃位し、淡路島へ流します。
孝謙上皇は重祚し、称徳天皇となります。
※重祚:一度退位した天皇が、再び天皇の座につくこと。
道鏡は称徳天皇の寵愛を受けて、僧侶の身でありながら政権運営に携わることになります。
道鏡は法王という特別な地位に任命され、称徳天皇と道鏡の二頭体制が確立されました。
神護景雲3年(769年)、「道鏡を皇位に就かせれば、天下は太平になる」との託宣が宇佐八幡宮から下ったとの報告が、称徳天皇にもたらされます。
称徳天皇はこれを大変喜びますが、天皇家以外の人物が皇位に就くのは前代未聞のことです。
神託が正しいかどうか確認すべく、称徳天皇は側近の尼僧・和気広虫を宇佐八幡宮へ向かわせようとします。
広虫は病弱であった為に弟の清麻呂を推挙し、宇佐八幡宮へは清麻呂が行くことになります。
清麻呂は宇佐八幡宮で「道鏡は排除すべし」との神託を受け、都に帰ると称徳天皇にそのまま伝えます。
称徳天皇はこの報告を聞いて怒り、清麻呂と姉の広虫を改名させてしまいます。
- 和気清麻呂 → 別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)
- 和気広虫 → 別部狭虫(わけべのさむし)
小学生か!と思わず言ってしまいそうなネーミングセンス。
でも、称徳天皇が崩御し、道鏡も失脚すると二人の名前も元通りになり、清麻呂は政界に復帰することになります。
まとめ
罪人を改名しまくっていた孝謙天皇(称徳天皇)ですが、その理由としては、彼女が名前や言葉には霊が宿っているので大切にしなければいけないという思いからだったそうです。
また、女帝ということもあり、有能な女性に官位を与えるなど、女性の地位向上に務めるという一面もありました。
あと、孝謙天皇といえば、山芋のエピソードがありますね。
山芋で道鏡のアソコを作り、それを使って悦んでいたとか…、まあ後世の創作でしょうが。
とにかく調べてみると面白い孝謙天皇。当時の貴族も、彼女がいるうちは失脚したくなかったでしょうね。(改名させられるから笑)