コレラの検疫が、不平等条約の撤廃につながった! へスペリア号事件 | 歴くまブログ

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コレラの検疫が、不平等条約の撤廃につながった! へスペリア号事件

こんにちは、歴くまです!

先月から、新型コロナウイルスが話題に上がることが多いですね。

日本でも感染者が出てきているので、外へ出るときは必ずマスクを付けるようにしています。

さて、新型コロナウイルスと言えば、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」が横浜の大黒ふ頭に接岸しています。

感染者が乗船していたことにより、乗客は船内での隔離生活を強いられることになりましたが、これと同じようなことが、今から100年前にも行われていたのです。

それが、コレラ船。コレラ患者が出た船はこのように呼ばれ、検疫のために40日も沖にとどめ置かれたそうです。

今回は、そんなコレラ船の事件であるヘスペリア号事件について、書いてみました。

世界的に流行したコレラとは、どのような病気なのか

コレラ船の歴史を見る前に、まずはコレラがどのような病気なのか簡単に説明します。

コレラは「コレラ菌」という細菌によって発症します。

菌の形状が細長い桿菌で、先端に付いている鞭毛により活発に活動することができます。

コレラの感染経路

コレラに匹敵する疫病にペスト(黒死病)がありますが、ペストがネズミなどを媒介して感染するのに対し、これらは人間にしか感染しません。

コレラ菌が人間に感染する経路は、主に2つ考えられます。

  • 自然界に存在するコレラ菌から感染する
  • コレラ菌に感染した患者の排泄物や吐瀉物から感染する。

コレラは、空気感染はしませんが、口などから直接体内に取り込んでしまうと感染してしまいます。

コレラの症状

体内に取り込まれたコレラ菌は、その多くが胃の中で胃液のために死滅しますが、小腸まで達してしまうと、患者は激しい下痢や嘔吐といった症状に襲われます。

これが極度の脱水症状を引き起こし、患者を死に至らしめるのです。

コレラの治療方法

コレラに対する効果的な治療方法は、患者に水と電解質を補給することです。

電解質は、水などの溶媒に溶ける際に、陽イオンと陰イオンに電離する物質を指します。

例えば、食塩(塩化ナトリウム:NaCl)は、水に溶かすとナトリウムイオン(Na)と塩化物イオン(Cl-)に分離します。

なので、経口補水液(水に塩化ナトリウムなどの電解質を溶かしたもの)を与えて治療する国もあるそうです。

なぜコレラ船は生まれたのか

西南戦争

西南戦争直後の1877年(明治10年)にも、コレラは流行していた

日本でのコレラの流行

日本で初めてコレラ患者が出たのは1822年(文政5年)でしたが、その発生源は日本ではありませんでした。

1817年にインドのカルカッタで始まったコレラの流行は、アジア、アフリカを巻き込む世界的な大流行となり、これが日本へも拡がったのです。

当時の日本は鎖国をしており、貿易の窓口も長崎、対馬、薩摩、蝦夷の4つに限定されていました。

コレラは、対馬経由で朝鮮から、もしくは薩摩経由で琉球から来たものと考えられています。

コレラの伝染を食い止めた箱根関

九州で始まったコレラの流行は、東へ進んで東海道に達しますが、江戸に達することはありませんでした。

江戸での流行の抑制に大きな役割を果たしたのが、箱根関です。

奈良時代には既に設置されていた箱根の関所ですが、明治時代に撤廃されるまで、関東防衛に重要な役割を果たしてきました。

それは、コレラに対しても同じで、東海道でコレラが流行した時は、箱根関で人の流れを規制することで、コレラ菌が関東、そして江戸に入らないようにしたのです。

コレラが空気感染しないことも、関所の効果を高めました。

コレラの流行が拡大した明治時代

ハリー・パークス

イギリス公使 ハリー・パークス

江戸幕府が倒れて時代が明治になると、全国の関所が撤廃され、箱根関もなくなります。

人々は自由に移動できるようになりましたが、これがコレラの大流行を引き起こします。

コレラによる死者は毎年数万人から10万人にもなり、当時の人々はコレラ患者が「コロリ」と死んでしまうので、コレラを「虎狼狸(コロリ)」と呼んで恐れていました。

毎年のコレラの流行に、何か対策を打たないといけないと考えた新政府は、1878年(明治)11年に検疫規則を作ります。この検疫規則が、コレラ船を生むきっかけとなります。

しかし、検疫規則に従えば、これを皮切りに日本の行政規則に従わなければいけなくなると考えたのか、イギリス公使ハリー・パークスは、在日イギリス人は検疫規則に従わないと主張しました。

翌年、コレラの大流行により政府は検疫規則を修正し、検疫を行おうとしますが、イギリス・フランス・ドイツは従おうとしませんでした。

そんな状況の中、事件は起こります。

へスペリア号事件

1879年(明治12年)、ドイツの船舶・へスペリア号が、コレラが流行している清から日本に直航してきました。

当然、日本は検疫規則に従い、船を仮規則で定めた横須賀の検疫場に向かわせて検疫を行おうとします。

しかし、ドイツ弁理公使はこれを不服として自国の軍医を検疫場に派遣し、独自の検査で異常がないことを確認させます。

公使はヘスペリア号の即時解放を要求、これに対して日本は検疫規則を守るべきと主張します。

このあと徐々に日本側が折れ、停船日数の短縮まで譲歩しますが、へスペリア号は勝手に横須賀を出港し、横浜に入港してします。

へスペリア号事件の影響

この事件は明らかに日本の行政権の侵害であり、日本では不平等条約の改正を求める声が高まります。

へスペリア号事件は、日本の面子を潰しましたが、同時に日本が諸外国と対等に国交を結ぼうと努力するきっかけの一つとなったと言えるでしょう。

まとめ

  • 明治政府による関所の撤廃により、日本でコレラが大流行した。
  • 日本は検疫規則を定めるも、イギリス・フランス・ドイツはこれに従わなかった。
  • へスペリア号事件が、日本が不平等条約の撤廃へと動くきっかけの一つとなった。

ちなみに、「コレラ船」は俳句や川柳で夏の季語にもなっているそうです。

当時、いかにコレラが大流行していたかが分かりますね。

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